言葉

日本の英語熱はとどまるところを知りません。外国ぐらしをしていると「英語が話せていいわね」とよく言われます。私はフランスに住んでいるので、英語でなく仏語なのですが。で、齢行ってからこちらに来て、かつまともな仏語学校も行けなかったので仏語には非常に苦労しています(泣)。その上昔習った英語は仏語が混じり合ってしまったため更にひどくなり見る影もない状態です(はぁ)。

 

さて、英会話学校のCMを見ていますと「英語が話せるようになる」という謳い文句をよく目にします。この「●●語を話す」の「話す」とはどうのような状態を指しているのでしょうか? 「挨拶ができる」「観光地などで買い物やレストランでの注文ができる」「簡単な日常会話ができる」「自分の考えていることを表現できて、現地の人たちのお喋りに参加できる」「相当突っ込んだ議論ができる」…かれらの言う『話す』とはこの中のどのレベルのことなのでしょうか?

 

『挨拶』や「『今日はいい天気ですね』『お会いできて嬉しいです』程度の日常会話ができる」レベルはほぼ決まり文句ですし中学校の英語で十分で、わざわざ高い授業料を払う必要はないでしょう。で、問題はその上のレベルです。しかしこのレベルになってきますと、もう学校で何を習うというよりも、それ以上にまず、言いたい何か、説明したい何かが話し手の頭の中にあるかないかの問題になってきます。言葉というのは自分を表現するための道具であるわけで、英語を話したいから英語を習うのではなく、英語で表現したい何かがあるからその道具である英語を学ぶわけです。

 

語学教育はできるだけ早いうちがいいと一般に言われていますが、上記のことを考えると、さてどうなのでしょう? 子供の学習時間は限られています。その貴重な時間を、将来使うかどうかも分からない、それも挨拶程度の英語学習に割いてしまっていいのかと疑問に思うのです。それよりも日本人だったら日本語で、それもできたら美しい日本語で、いろいろなことを表現できる語彙を増やすことの方がずっと大切なのではないか、と。これは外国にいるからよけいに感じるのでしょうけど、外国に住んでいる方は概ねそのようにおっしゃると思います。

 

ある子供英語学校CMを見ていまして。そのオチが「これで将来子供と一緒に外国へ行った時、子供に買い物をしてもらえるわ」というのを聞いて愕然としたことがあるのです。

 

思考は言葉でなされます。高度で複雑な思考は豊かな語彙がなくてはできません。子供期はその豊かな日本語の語彙の土台を作る大切な時期です。英語学習は、自分の考えを英語でしかコミュニケーションができない誰かに伝えたい、と思った時、仕事でも友人でも、そういう相手が出てきた時に始めても決して遅くはないでしょう。むしろ必要に迫られお尻に火がついた時の方が効率がいいかと。

 

ケント・ギルバートさんがどこかで言っておりました。「英語を日本語に訳すのは簡単だ。だが逆はとても難しい。日本語には微妙なニュアンスを表現する言葉や言い回しがたくさんあるが英語にはないからだ」と。えみこ

 

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